正法寺(しょうぼうじ)は広島県福山市鞆の浦にある臨済宗妙心寺派のお寺です。
当寺は慶長三年(1598年)京都・臨済宗東福寺派の守意を開基とし、元和九年(1623年)深溪和尚(しんけいおしょう)により妙心寺の末寺として再興されました。
深溪和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、奇木や珍石を多く集めて庭に数奇を凝らしたといわれ、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用されました。
創建から400年が経った現在においては、枯山水の中に数々のお地蔵様が佇み、境内のお堂には鞆町の多くの信者から寄進いただいた十六羅漢像、そして堂内鬼門には毘沙門天を安置し、鞆の町において心の癒やし場として親しまれております。
正法寺こぼれ話1
当寺の北隣に「安国寺」という1273年から続くお寺があります。当寺創建時にその安国寺の住持を務めていたのは安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)という人物でした。
恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。
更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に与し敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。
それにより安国寺は衰退。東福寺の力が薄れた安国寺が江戸初期に京都妙心寺の末寺となったことから、安国寺と関わりが深かった当寺もそれと同じ道をたどり、東福寺派から妙心寺派へと改まったものと考えられます。
正法寺こぼれ話2
当寺を再建した深溪和尚は庭造りに大変熱心だったと伝わっていますが、400年の時を経た現在、和尚の庭がどのようなものであったのか、残念ながら見ることはできません。
ですが、ある僧が和尚の庭を眺めた折に遺した一句からその姿を窺い知ることができます。
「ひとやあらぬ花はむかしの作庭」
(直訳:この庭を作られた風流な方は既に故人と聞いているが、きれいに咲いている花々は故人にかかわりなく競い咲いているようだ)天和元年(1681年)「あくた川のまき」より
この句は和尚が当寺の住持となってから60年程後に詠まれたものです。庭の数寄に感じ入り、庭を作った人への追憶、そして人間の儚さが秘められたこの一句から、和尚の庭は花が咲き誇り、思わず発句したくなるような素晴らしいものであったことが推察されます。